2011-02-27

3D映像といふ幻想

実際に3D映像といふものを見たのはヤマダ電機の展示品で、テレビだつたのか、ビデオカメラだつたのか、それさへもはつきりしないけれども、そのときの印象は、これは違ふ、だつた。
マスコミや家電業界が3D映像をどう定義してゐるのか知らないが、少なくともオレにとつての3Dは現実にこのオレが見てゐる世界と同様のものである、といふ意味だ。つまり人間の目と脳によつて把握できる現実の映像といふことだ。しかし、オレが見た3D映像は飛び出す映像だつた。距離感は確かにあるけれども、それは飛び出してゐるやうに見えるだけだ。これをもつて3D映像と呼ぶなら、こんなものは子ども騙しに過ぎない。
どんなに見事な写実的な風景画であつても、現実の同じ風景を凌ぐことは出来ない。どちらが感動するかといふ意味ではなく、その場に立つて肉眼で見てゐる風景と比べて見れば違ふ感じがする。本人は見てゐるとは思つてゐなくても、視野の片隅に入つてゐるものを実は見てゐるからだ。写真でもいい、テレビ画面でも、映画のスクリーンでもいい、人間の視野に比べればびつくりするほど狭いといふことは経験的に誰でも知つてゐる。二三年前に暫く振りに太田イオンで映画を見たとき、画面が大きいのに戸惑つたけれど、それでもオレの視野にはスクリーンの外側も入つてゐた。恐らく、正面を見てゐても、顔の左右に挙げた手は見える。極端に左右の視力が違つてゐるオレでも真横近くまで見える。
人間の目のやうな距離感を作ることが出来ないのだらう。限られたフレームの中で擬似的な前後関係を作つてゐるに過ぎない。つまり、3D映像は幻想に過ぎない。
アランは精神と情熱とに関する八十一章の始めのはうで(小林秀雄訳で初版なのが自慢なのだが、読み齧つてるだけで、きちんと最後まで読み通してゐないので偉さうなことは言へないが)「あの遠い地平線を、僕は遠いとは見ない。水平線の色とか、そこに見える他のものとくらべた水平線の大きさだとか、こまかいところはよく見えないとか、水平線と自分との間になにかあって、それがために水平線の一部が見えないとか、そういうことから判断して、あの水平線は遠いと判断するのだ。」と言つてる。つまりさういふことだ。立体的にものを見るのは目だけではないといふことだ。脳が判断して始めて立体的に見えるといふことだ。脳の働きを経ない映像には限界がある。