2015-07-21

見えるものと見えないものと

最近、いろいろ考へることがあつて、特に記憶とか、見えないものとか。
考へたからつて、それで答へが出せるワケではない。なにしろほぼ中学卒業程度(高校では殆ど勉強をしなかつたし、当時の教科書なんて読んでも判らないことばつかりだらうから、正直言つて中学卒業程度の頭があるのかどうか自信がないくらゐ)の学力なのだから。
そもそものキッカケは織姫詣の帰りに、以前弁当屋さんだつた空き家のまへを通つたときのこと。もうひと月くらゐまへの話、いや、もつとまへだつたかも。
隣が花屋で、そこはいまも店を続けてゐる。その空き家が弁当屋さんだつた、といふことが頭に浮かんだし、一度だけ入つたことがある店内の様子などが一瞬見えた。
そのとき、この記憶はオレの頭の中にあるんぢやなくて、ここに、この場所にあるんぢやないか、と思つたのですよ、なぜか。
だから、オレの頭の中には小さな欠片(かけら)みたいなものがあるだけで、その欠片とこの場所にある「記録されたもの」が接触したときに記憶が蘇るんぢやないか。だから、オレの頭の中にはスイッチだけがあるんぢやないか。
それで、以前から思つてることなんだけど、脳の中には記憶はないんだ、といふ話になるんだよ。
脳にはスイッチみたいな欠片しかない。それが場所や人や物、音楽、景色、匂ひ、味などと接すると、そこに記録されてゐる、例へば「オレ」の「専用の記録されたもの」が記憶といふ形で蘇るんぢやないか、と。
だからまあ、そつちにある、例へばさつきの話だと弁当屋さんのあつた場所にある、と言ふより、その辺の空気の中に「記録されたもの」は漂つてるんぢやないのか。或は織り込まれてゐるんぢやないか。目には見えないけれども。
それで、更にいま自分が見てゐるものと本当のもの、見えない物を含めた本当の姿といふ話にも入りたいんだけど、それは次回。