2015-09-17

思ひきり食べよう、思ひきり生きよう

といふCMがあつて、なんのCMだつたか思ひ付かなくて、でも気になつてゐたんだけど、きのふ漸くポリグリップといふ入歯安定剤のものだとわかつた。
この「思ひきり生きよう」つて、いいなあ。もちろん「思ひきり食べよう」つてのもいい。宣伝したいのは商品の品質の良さなんだらうけど、違ふ意味で、いい言葉だなあ、と思ふ。
といふのも、最近のマスコミ、ネットを含めた情報の洪水は、あれが体に良い悪い、あれが太る、コンビニ弁当は添加物だらけで、ポテトチップスは脂がどうした、砂糖は体を冷やすから良くないだの、塩分は高血圧とは関係ないだの、なにはなんといふ病気のもとだのと、オレも結構毒されて気触れて(気が触れるみたいに見えますが、かぶれるといふ言葉の宛て字です)るけど、いみじくも田中小実昌が看破したやうに「健康のためなら死んでもいい」と言はんばかり。その中で「思ひきり食べよう」は、いいよね。そんで、「思ひきり生きよう」は、もつといい言葉だ。合言葉にして合唱したいくらゐだよ。
オレを筆頭にして、いま殆どの人間は、本来の意味での、観念の複合体としてのコンプレックスの塊になつてゐると思ふ。無意識や潜在意識なんていふフロイトの玩具は引き合ひに出さなくても、誰もが少なからず、どこかで思ひきり生きてゐない、生きられない社会の構造になつてるんぢやないか、詰まらない情報が氾濫して、オレはなにをしたいのか、オレはどうしたいのか、いいや、もつと単純な話で、オレはいまなにが食べたいのかさへ、はつきり言へなくなつてゐる気がする。まはりのコメントをまつたく気にしないで、思ひきり食べたいし、思ひきり生きたい、とさう思ふ。(疲弊してるのは、オレだけだつたりして)