2016-01-25

見えるものと見えないものと、その弐

織姫詣の帰りに、以前弁当屋さんがあつた空き家のまへを通つて記憶が蘇つたといふ話から、脳には記憶がないんだといふ話をした。脳には欠片、スイッチみたいなものしかないんだ、と思ふ、と。寧ろ記憶は、記録されたものはその場所、その空気みたいなものに織り込まれてゐるんぢやないか、と。偏在するといふ言ひ方でいいのかなあ。
で、例へば、いま私が見てゐるもの、見てゐる映像といふか世界は脳が見せてゐるものだ。たぶんこれは間違ひない。けれども目は、視覚として見えてゐると脳が理解してゐる以外のものも捉へてゐるのではないか。なぜこんな風にしか見えないのか。脳にとって都合がいいからではないか。人間が生きて行く上で必要な世界を人間の脳は見せてゐる。
別の場、見えない場がある、脳が切り捨ててゐる世界の画像、映像があるんぢやないか。
人間の視覚には光が重要だが、光は粒子としての振る舞ひと波動としての振る舞ひがあると言ふでせう。人間が見てゐるものは、光の粒子としての振る舞ひを見てゐるのではないか。だとすれば、全然違ふ見え方があるんぢやないか。
粒子ではない、波動としての振る舞ひを捉えるときに、世界はどう見えるのだらう。例へば水の中のやうな世界ぢやないか、と思ふんだけど。