2015-01-12

さうだよ、ずつとビリだつたぢやないか

月に1〜2回行く桐生の風呂屋(スーパー銭湯といふ部類なんだらうが、あんまり使ひたくない呼び方なので敢て風呂屋と呼びます)で、低温サウナに入つてゐたとき、こんなことを考へた。
けふは始めて30分以上も入つてゐたのだが、隣で呼吸音の五月蝿い小父さんに対して、迷惑だなあ、静かにしてほしいなあ、などと考へてたら、急に昔のことを思ひ出した。
中学の頃、学校の屋上で味はつた至福感だ。ヘンリ・ミラーも「マルーシの巨像」の中で触れてゐるけど(水声社版、金澤智訳P24)、「ただ幸福であるだけでも素晴らしい。自分が幸福であることを知るのは、さらに素晴らしいことだ。(中略)それは至福であり、まともな人間なら、瞬時に自殺してそれを全うしてしまうだろう。(中略)そのときその場で自殺する勇気も気力も、私にはなかったのだが、自殺しなかったこともまた、私にとっては素晴らしいことだった」といふ瞬間を思ひ出したのだ。そしてオレも自殺はしなかつたから、かうして生きて恥を晒してゐるワケだが、あのときオレは凡てを受け入れ、許せる、と感じたものだつた。
なのに、あれから45年も過ぎると、低温サウナで呼吸音が五月蝿いといふだけの理由で、隣でいい気持ちで横になつてゐる小父さんに対して不満を抱くやうになつてしまつた。一体いつからオレはそんなに偉くなつたのだらう?
さう、オレはずつとビリだつたぢやないか。
幼稚園の帰りに待ち伏せされて虐めに遭つて以来、小2でお漏らしをして帰りに下駄箱のところで同級生の女の子たちが「小2にもなつてはづかしいよね、」と囁き合つてゐるのを聞いて以来、中2で、教師に「この辺にゐない顔してるよな、」と言はれ、中3で後輩の女子に「あの気持ち悪い人ね」と言はれて以来、容姿を含めて自分といふものにまつたく自信を持てないだけでなく、小2の徒競走以来中学卒業まで走れば必ずビリで、中3のマラソン大会では前方を歩く生徒にすら追ひつけなくて(この正月、改めて弟に不思議がられ笑はれてしまつたが)校舎のてまへで美術の松岡先生に「頑張れ」と尻を叩かれたくらゐで、それでも、あの日の屋上ですべてを受け入れられる、許せると思つた筈なのに。
一体いつからオレはそんなに偉くなつてしまつたのだらう。ビリでいいぢやないか、ダメなヤツでもいいよ、人にそんな些細なことで不満を抱くやうな人間になつてしまふなんて、最低だらう。ビリでいいぢやないか。