2016-02-04

もう梅が咲いてゐたといふ話と一筆書きにとらはれてましふこと

一筆書きにとらはれる、つたつて、なんこつちや、だなあ。そのまへに梅が咲いてた話をしよう。
織姫神社の手まへに、法玄寺といふ八百年前から続く(と言はれる)古刹があつて、そこの境内にある梅が花をつけてゐた。もう春が近いんだなあ、とお爺さんは思つた、といふ話。
で、一筆書きといふのは、例へばジョギングするとかウォーキングするとか、そのコースの取り方がどういふワケか一筆書きのコースを選ぶ、といふか、さうぢやないとなんとなくイヤだといふ話。序でに言ふと周回コースはイヤなんだよね。虚しい、エアロ・バイクも虚しい、オレはハツカネズミか。
つくづくけふ思つた。そんなことを言へば織姫の階段の登り下りは同じ処を通ることになるワケで、一筆書きにはならない。右側、左側と分けたつて、階段そのものは一緒だ。ぢやあ、正面と縁結び坂と必ず分けるのか、といふ風に考へ始めると、いいや、面倒臭い、となる。だから行動そのものを縛ることはない。けど、かういふ、どうでもいいことを気にする処がイヤなんだ。
かう、思ひのまま、気の向くままに動く、といふことができない。性分かねえ。些細なことで結構気がつくことがあつて、なんでかう思ふの?と自分でイヤになる。自分でストレスを作つてるね。偏執狂的批判的なのだ。
今度はまつたく同じ道を往復するかなあ。現状打破のために。自分がイヤがることをする、つてのはどうか。