2007-02-28

権利と義務と責任と

それほど忙しい訳でもないのに、慌ただしくし過ごしてゐると、新聞やテレビの報道を充分に咀嚼せずに齧るだけで頭のどこかに残してしまふ。日々この繰り返し。まして送り手(敢へて作り手と呼んでもいい)は他よりも素早く大量に送ること優先的に考へてゐるから、充分に材料を吟味する時間はない。消化不良や食中毒、死者まで出しても、我々は報道してゐるだけだ、と言ふのでせう。報道する権利と義務があるから。報道の責任はどうなのか。ま、マスコミ報道についてはアルフレッド・ジャリの「事故とカメラマン」(「馬的思考」サンリオSF文庫)にトドメを刺す。これは1901年に書かれたもので、月刊彦七新聞のホームページでも触れたことがある。それから凡そ100年がたつあひだ、日航機事故でも豊田商事社長殺害事件でも、腐るほどゐた報道人が救出や介護、警察への通報や不法侵入を阻止しようとしたといふ話は聞かない。事件の報道が最優先ではなかつたか。確かに素人が手を出せない場面もある。レスキューに頼るしかない場合もある。──が、怪我人を取り囲み、マイクを向けるのだけは止めろ。見世物ぢやないんだ。こんな光景を毎日のやうに見てゐて、まともな人間が育つ訳ないだろ。ジャリの言ふやうに、その事故現場にはカメラマンなんかゐなかつた、ただ当たり前の人間が1人ゐただけだ、だからその事故の写真がないんだ、と。それを「よし」とする、さういふ世の中にはならないのかなあ。殺人者にも人権が、と言ふ同じ口で護送車の後部座席にズームインする。こいつが犯人です、とばかりに。強姦目的で押し入り、逆らつた主婦(逆らふのは当たり前だ!)を殺して陵辱し、それを見て泣き叫ぶ幼児を殺した少年に「殺意はなかつた」と雁首揃へて会見する弁護士の方々、自分がその夫であり父親だつたら、と少しは考へたことがありますか?一人殺しただけでは最高裁での死刑判決は判例がない、とか、精神鑑定で責任能力がないから無罪だ、とか、法律の前に人間でゐてくれよ。事件の後で鑑定して、なにが解るの?──ホントに誰が責任を取るんだ、と聞きたいね。

2007-02-25

新聞記事の方が怪しいね

hiko7さんの言葉で気付いたけど、新聞記者はテレビやラジオは自分とは別のマスコミだとおもっているんだね。そういえば、テレビやラジオよりも新聞記事の方が受け手に直接事実を伝えられないから、捏造といえなくても、新聞記事は記者の個人的または会社的な偏見を反映して事実を隠蔽したり歪曲したりしている危険は高いよね。何れにしろ、マスコミの情報を注意深く受け取る必要があるよね。日本にジャーナリズムなんて存在するのかな?デモクラシーとしての民主主義が未だに存在した事がないようにジャーナリズムも怪しいな。
ところで、この頃、犯罪者の責任能力と云う議論をよく聞くけど、これこそ科学的或いは法学的な根拠が曖昧な気がしますね。犯罪者に責任能力が無い場合のその犯罪に対する責任の所在や被害者に対する謝罪や補償責任はだれが負うのでしょう。勿論、保護者か国家しかないよね。犯罪の実行能力があるのに責任能力が無いなんて納得行かないけど、欧米から無批判に受け入れたとしか思えない責任能力を裁判に持ち込むなら、ちゃんと責任が迷子にならないようにして欲しいね。

2007-02-22

きのふはマイナスイオンの話で

もう科学と非科学といふ話ぢやない。なにをもつて科学と呼び、なにを非科学と呼ぶか、さういふ議論ではなく、科学的と称して実は立証なり実証されてない事柄を根拠にして商売乃至人を惑はす行ひがあるか、といふ検証だろ?タイトル負けだな。こんなことは、ずつと昔から新聞テレビなどの自浄作用のない組織が繰り返して来たことだ。夜間金庫事件といふのがあつて、某新聞報道で犯人扱ひされた、その金庫の利用者が、実は無罪だつたにも関はらず自殺したことに就いて謝罪がなかつたこと(新聞記事に就いて遺書で抗議してゐたと記憶する)、また前橋の保険集金人の失踪に就いても某新聞は集金人が犯人であるかのやうな、さう読み取れる報道をしたことで家族が自殺に追ひ込まれ、実は集金人は殺されてゐた、といふ事件に就いても、オレの記憶する限り紙面での謝罪はないなど、奢つてんだよ、新聞テレビは。この2つの事件は20年近く前のことで、科学と非科学の話とは関係ないけど、体質はまつたく変はつてないんだな。真面目に記事を相手にしたのがバカでした。

2007-02-19

テレビのうそ

つてのも、始まつてる。読んでないけど、2回目か3回目まで続いてる。よくそんな題名付けられるよなあ。例へば日本テレビは読売新聞、テレビ朝日は朝日新聞、毎日はTBSといふ風に繋がつてんでせうに。テレビで「新聞の嘘」なんてことは番組にしないけど、天下の公器たる新聞様は言ふことが違ふ。話が逸れるので、科学と非科学に戻すと、3回目が何と血液型の話になつて、もうどうでもよくなつちまつた。そもそも占ひが科学的かどうか議論することがピントがズレてると言ふか、……マリアが処女でキリストを懐妊するなんて非科学的だとキリスト教の信者に言ふかい?相手になつてたオレがバカでした。──序でに言ふと、ライアル・ワトソンの「スーパーネイチュア」には、ゴムの木がポリグラフ(嘘発見機)に反応して、恰も人間に対して好き嫌ひの感情持つかのやうに思へるデータが出てゐるけれども、これはさういふ現象が見られたのであつて、植物に感情がある、といふ意味ではない。ワトソンもそんなことは言つてない。

2007-02-15

反省文じゃないね

hiko7さんからの伝聞で判断するのは危険かもしれないけど、やはり、
記事を書いているマスコミの一員は反省してないね。「科学と非科学」
なんぞと大層な題で反省文書いてるのかと思ったら、マスコミの捏造
問題を誤魔化してるだけだね。「世間でもこんな状況ですから、マス
コミも同じ世間に生きる人間達なのでどうか大目に見て下さい」とで
も云いたい処を素直に云わずに現代社会全体の問題みたいに摩り替え
ちゃってるよ。
記事の中に出てくる中学生の「カイワレ大根観察記録」は「ニセ科学」
ではなくて「科学」だと思う。「水からの伝言」に触発されて推論を
立ててそれを実験したのだけど、実験が技術的に稚拙だったり、観察
が不注意であっても「科学」実験のトレーニングと考えるべきで
「ニセ科学」などと呼んで欲しくないね。大体、マスコミの捏造問題
は「ニセ科学」ですらなく、科学実験を装った詐欺問題だよ。どうせ、
制作者は「次は何をやろうか?そろそろダイエットなんていいんじゃ
ない?そうだね。じゃあ、意表を付いて納豆でダイエットなんてどう
?」などと云う推論があって、実験を脚色して推論を結論として強引
にでっち上げた。その結果、利益を得ている訳だから、これは詐欺以
外の何者でもない。
記事の「波動」話は、hiko7さんの云う様に「科学以前」かな?「ニセ
科学」ではないですね。これこそ「非科学」といっていいかもしれな
いね。自然科学的な実験ではないけど、経験と観察を積み重ねて獲得
する知恵に近い。昔の人が毒キノコを見分けれる様になった事に近いね。
最後に、この記事に出てくる事と書いている人の考えには、わたしが
「自然科学病」と呼んでいる症状が蔓延している気がします。水やカイ
ワレ、サボテンが言葉を理解しないと証明出来るかと云われれば出来
ないが、それらが言葉を理解するとも証明出来ない訳で、何にでも都合
次第で「科学的な証明(根拠)」を求めるが、その「科学的な証明」
がどういう事なのかは理解していないのです。科学的な証明は自然科
学的な実験によって行うけれど、「自然科学的な実験」はその都度、
実験する観測者が可能な精度を限界とした妥当性(確からしさ)しか
望めないと云う大前提があり、しかも、自然の真理を認識する為に
「科学的な証明」或いは「自然科学的な実験」が十分な手段であるか
は証明され得ないと思います。本当は人間が日常生活または暮らしを
送る中で科学的な根拠を必要とする事なんてほとんどないと思います。
科学技術ですら純粋な自然科学が要求するような実験の精度は必要と
していない様に思えます。
序に云うと、hiko7さんの記事に対する意見はどちらかと云うと
「非科学」に近いかな。

2007-02-13

水に言葉は通じまい

先づ、今朝の記事に不穏当な表現があつたので訂正しました。──で、続けると、モーツアルトを聞かせたバナナ、モーツアルトを聞かせた清酒まであるらしいが、それに就いてどう、とは記事には書かれてゐない。記事を書いた人の考へは曖昧なまま、こつち(読み手)に下駄を預けてるけど、これだけでは考へやうがないでせう。モーツアルトの曲は垂れ流しに的に耳に入つても違和感がないから。職業や年齢、男女の別による統計を取つても、そこに現れる微妙な差は恐らく大数の法則で「モーツアルト効果」の勝ちだらうね。でも、これは科学以前の話ぢやないかい?モーツアルトの曲なら何でもいいのかなあ。それもをかしくないか?山ほど曲を作つてるでせうに。──第2回目は「ニセ科学」。カイワレ大根観察記録の話から始まる。2つの容器に入れたタネの片方は「ありがたう」、もう一方は「ぱか」と声を掛けて育てたら、「ばか」と声を掛けてたはうは育ち方が不均一だつた(担任の目から見れば、どつちも似たり寄つたりに見えるが)と結論付けて、中一の子どもが夏休みの自由研究として出したのださうだ。水にありがたとうと声を掛けると美しい結晶になり、ハード・ロックだと乱れたり結晶しない、と主張する「水からの伝言」といふ本があつて、それを学校で取り上げ、それはをかしいと思ふ母親の周囲には疑問にも思はず、1.「おとぎ話では動物が人間の言葉を喋る(だから水も言葉が解ると言ひたいらしい)」とか2.「水に言葉が解らないと証明出来るか。科学には解明されてないことも多い」などと言つてゐる、といふ話から、或る理論物理学の大学教授が「水からの伝言」を批判して「shine」と書いた紙を貼つたらどうか、死ねともシャインとも読める、と──でも水は文字が読めるとは言つてないんでせうから、それでは凹まないよ、声を掛けると、なので、言葉の意味が解るといふ話だから、……と、またしても取り留めのない記事なんで纏めることも出来ない(と記事のせゐにしてる)が、水に言葉が解るかどうか、といふことなら、ない、と信じる。理解しないと証明出来るかと聞かれれば出来ないけどね。第一、水は考へたり、感じたりするものなの?カイワレなら解らないでもないが、カイワレだつて言葉は解らないでせうに。「ありがたう」のやうに優しい口調で「ばか」と言つても結果が同じなら、意味が解る、つてことぢやないの?どつちにしても、2.は「水からの伝言」を鵜呑みにしてるだけのことだし、1.については正気か?と聞きたいくらゐだ。これを「ニセ科学」と呼んでるけど、科学なのかい、これは?──とは別に結晶にならない水つて、どういふもの?どういふ状態なのかな?……と言ひつつ、明日の朝、時間があつたらライアル・ワトソンの「スーパー・ネイチャア」に触れたいよオ。もう寝る。

先づは万能モーツアルト

続きが遅れてしまひました。hiko8さんの言ふ通り、日常生活と暮しは同じだね、どういふ積りで言ひ換へをしたんだらう。いづれにしても実に整理された意見なので感心してしまふ。そこまで言葉を選んでないから、反省しなくては。兎に角、続きは書き始めてゐたけど、新聞を読み返してたら何が言ひたいんだらう、と思つてしまひ、中断してゐたのです。大体ね、納豆で痩せる、つてことは科学なのかなあ、とか。──第1回目は「波動」で、よい波動を込められた塩は体にいい、といふインチキ商売のことにも触れてるのが半分。ま、これは科学に限らずある怪しい商売の手口の1つでせう。宗教的なのも含めて、腐るほどある。身内に被害が出なければ放つとくしかない。それとモーツアルトの話だ。「モーツアルト効果」といふのがあるんださうだ。会社のBGMでモーツアルトを流したら、社員のミスが1/3になつた、とか。鳥取市役所でもモーツアルトを流してるらしい。仕事の集中力を高めるんだと。本気でさう信じてゐるのだらうか。石原裕次郎が流れてる、と聞く北国の駅よりは個人的にはマシだけど。音楽が癒しの効果がある、つてのは聞く。けど、ロックぢやダメなんてことはないよ。──けふはここまで。仕事行かなきや。レンタルDVDも返さないと延滞取られるし。

2007-02-12

続きはまだですか?

hiko7さんの記事はまだ途中なのでこの後どうなるのか分かりませんが、
わたしも少し書いてみます。
hiko7さんの「暮らし」と「日常生活」の区別がよく分らない気がしますが、
「あるある」捏造問題から「科学と非科学」へ飛ぶのは余計に解らない。
これもマスコミを通じた情報を元にした印象だから当てにならないけど、
現代人とやらは「科学病」に罹っている気がします。あの捏造問題にも
科学病の症状が作り手にも視聴者にも表れている。自然科学は方法
や認識の事なのに成果だの技術だのと云い、終いには科学的な常識
と来る。常識と科学的な態度とでは隔たりがあると思います。
今、よく使われる「科学」と云う言葉は「科学技術」の意味らしい。ならば
「科学と非科学」とは、「科学技術と非科学技術」或いは「科学的常識
と非科学的常識」くらいのつもりなのかな?でも、科学的常識というのは
頷けないね。そういえば「科学と非科学」と題した文章が何処かの著名
な学者か何かの作品であったような気がするね。するとマスコミの捏造
問題から考えさせられたマスコミの一員が、また、何かの権威に肖って
検討違いなタイトルで反省文を書いているという事か。

2007-02-08

科学と非科学

1月31日付の毎日新聞朝刊に「科学と非科学」といふタイトルで始まり、それが2月7日に第2回。全部で何回なのか解らないけど毎週水曜日の朝刊に載るこの記事がちよつと面白さうなのだ。この記事のスタート理由は、ずゐぶん前にHP「月刊彦七新聞」に書いたことがある(脳を休める云々といふ内容で、余計な知識を吹き込んで置きながらよく言ふよ、と呆れちまつた)「あるある大辞典」の捏造騒動(騒動にしてる側のマスコミがかういふ書き方を平気でする無自覚さにも呆れる)で「科学と私たちの関係を改めて考えさせる出来事だつた」からだと言ふ。これもなかり雑な発言だが、その前に冒頭「科学の成果や技術は暮らしに入り込み、私たちはその恩恵の中に生きている。一方で「科学的」といわれるものを信用しすぎる面もある」(無断引用なので訴へられるかも知れないが、そのままでないと伝はらないから)──一体何時代の人が書いてんだらう、と疑つてしまふね。この記事を書いてる人は幾つなのだらう、明治生まれかい?それに少なくともオレはこの中の「私たち」ではないと言ひたい。記者の個人的な考へを「私たち」で括るのはよせ。科学は生活手段として日常生活に入り込んでるが、暮しといふ人の営みとは区別したはうがいい。車、家電製品、携帯電話、パソコン、医療、……など飽くまでも手段に過ぎない。記者はそれを恩恵と言ひ切つてしまふが、それがどれだけ人間をダメにしてるか。あなたは19世紀の人間ですか?金は手段だけれども目的になつてゐないか。手段が目的になつてゐる。太田のイオンなんかへ行くと、あれを買へ、これを買へとばかりに品物が溢れてゐる。需要と供給が正常な関係ではなくなつて久しい。未だに大量消費を強いてゐるのはなぜか?この状態が改善されなければ科学云々なんてことは言つても無駄だろ?人間の神経が病んでる、オレ自身も含めて。──記事のことが書けなくなつた。

2007-02-07

どうして50□才からの……つて、なつてんだ?

こないだ「shaun of the dead」つていふ日本未公開(らしい)「ゾンビ」(たぶん原題がdawn of the deadだつたと思ふ──で、続篇と思はれるものが原題のままでレンタル屋にあつたから借りて見たことがあり面白かつた)のパロディでイギリス映画でなかなか面白かつたのだ、といふ話を投稿しようかどうしようか迷つてゐてプログの画面を見てたら、右のはうにあるリンクのところに「50□からの……」つて「□」が入つてて、テンプレートでチェックしたら□なんかないのだ。どういふことだ、と思ひながら今朝の毎日新聞の記事が頭に浮かんで、これはそもそものところから語るしかあるまい、と。科学と科学的といふ話かな。……続きは明日。